全倉運 Japanese Warehouse Transport Union

組合の歴史

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1945

 1945(昭和20)年8月、軍事国家日本、ドイツ、イタリアの敗北によって第二次世界大戦が終わった。人々は食べ物と自由に飢えていた。「食えない」状態から抜けだし、押しつぶされていた自由と民主主義を確立するために、働く者の生活を守り権利の確立をめざして、全国の職場に労働組合がたくさんつくられた。戦争中の「日本倉庫統制会社」(日本中の倉庫会社は強制的に一社にまとめられていた)は解散し、それぞれの会社が営業を開始した。

[余話]「当時は保管する貨物なんかなく三菱や三井の庭を掘り起こしてサツマイモをつくっていたョ」というのが大先輩の思い出話だ。

1946

 倉庫産業における労働組合は、1946(昭和21)年10月「全国倉庫産業従業員組合連絡協議会」が結成され、これが翌1947(昭和22)年12月「全国倉庫従業員組合会議」(略称・全倉会議)に発展した。これが今の全倉運の前身に当たる。

1947

 1947(昭和22)年、日本国憲法発布された。国民主権、基本的人権、戦争放棄、労働者の権利、言論・集会・結社の自由などが確立され、今まで天皇制のもとで国から弾圧を受けていた労働組合に誰でも加入し活動できるようになった。

1949

 1949(昭和24)年9月10日、全倉運会議が連合体組織に発展し、「全日本倉庫労働組合同盟」(略称・全倉庫)に名称を変更した。
 そのときの加盟組合は、三菱倉庫、三井倉庫、澁澤倉庫、大洋倉庫(現在の安田倉庫)、東京湾倉庫(後に脱退、会社は相模運輸と合併して現在相模運輸倉庫)、帝蚕倉庫、東陽倉庫、東海倉庫、中央倉庫、京都倉庫(現在の京神倉庫)、住友倉庫、杉村倉庫、東洋倉庫(東洋埠頭ではない)、川西倉庫、西九州倉庫の15組合。組合員数は約4700人だった。
 その後の1、2年の間に加盟したのは、東洋埠頭、帝国倉庫(現在のテイソウ)、高崎倉庫(その後脱退)、追浜倉庫、福井倉庫(どちらもその後消息不明)、西尾倉庫、博多臨港倉庫(現在の住友倉庫九州)、などの各労働組合である。

1954

 1954(昭和29)年3月、第五福龍丸という漁船が、太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験の死の灰を浴び、乗組員が全員被爆するという大事件が起こった。無線長の久保山愛吉さんが6ヶ月後に亡くなった(ビキニ事件と呼ばれる)。
これをきっかけに「原水爆反対!」の声が大きく盛り上がり、全国で三千万人という空前の署名が集められ、この力をもとに翌年始まったのが原水爆禁止世界大会で現在も毎年広島・長崎で開かれている。

[余話・1]このときの署名簿は、今も東京・清洲橋にあるテイソウの倉庫に大切に保管されている(荷主は日本原水協だそうだ)。

[余話・2]第五福龍丸は、その後色々なところで使われた後、廃船寸前の状態で東京・江東区の夢の島(今のように綺麗な公園ではなく生ゴミの処分場だった)に捨てられているのが発見された。引き上げられ修理された同船は、今は「核戦争反対」の証人として、夢の島に建てられた「東京都立第五福龍丸展示館」に納められている。ぜひ一度は見に行ってほしい。

1955

 1955(昭和30)年5月、全日本倉庫運輸労働組合同盟(略称・全倉運)という現在の名称に変更をした。ここで、「全倉運」という名前が日本の労働界に華々しく(?) デビューしたことになる。「運輸」を付け加えたのは、港湾運送・運輸部門に組織の幅をひろげていこうという考えからだ。
この年春闘が始まった。最初に参加したのは合化労連、私鉄総連など8つの全国的な組合だった(俗に「八単産共闘」と呼ばれる)。

[余話]当時の機関紙を見ると全倉運は2年くらいたってから春闘に参加しているようだ。

1958

 1958(昭和33)年頃からいわゆる「高度経済成長」が始まる。その頃の労働時間の例をあげると、こんな具合だった。
三菱=平日8:30~16:30、土曜8:30~12:30
三井=平日9:00~17:00、土曜9:00~13:00
住友=平日9:00~17:00、土曜9:00~14:00
帝蚕=平日9:00~17:00、土曜9:00~14:00
澁澤=平日8:30~17:00、土曜8:30~14:00

[余話]当時は週休2日制などはなく、全土曜日が出勤日で半ドンですらなかった。

1959

 1959(昭和34)年度の年末一時金(当時は越年一時金、越年手当(年を越すためのお金という意味)の水準の一例をあげてみよう。
住友=1.668ヶ月/組合平均41,580円
川西=2.210ヶ月/組合平均40,298円
安田=2.670ヶ月/組合平均63,400円
杉村=1.970ヶ月/組合平均38,140円

1960

 60年安保闘争。「アンポ、ハンタイ!」の声が渦巻き、日米安保条約に反対するデモ隊が連日国会議事堂を取り巻いた。「日本史上最大の大衆運動」と呼ばれる国民・労働者が一体となった大闘争だった。全倉運の先輩たちも多くの労働組合の人たちと一緒にデモや集会に参加している。

1963

 全倉運結成15周年記念行事。講演会、記念のハンカチ作成、写真コンクールなどを実施している。

1965

 住友倉庫労組が労働基準監督署に実態を訴えるという戦術を提起していわゆる「時間外リベート」の撤廃に成功した。この当時、実際の残業時間の半分程度しか、残業代を支払わないという仕組み(時間外リベート。古式のサービス残業)というのは賃金の不払いになるから労基法違反だが、かなりの職場で行われていた。その後、各組合で徐々に改善されていく。

1966

 春闘では全倉運加盟組合のおおかたがスト権の確立に成功。三菱倉庫は時間外労働拒否を実施。三井倉庫もスト権を確立。全倉運のすべての組合が参加し、まとまって実力行使戦術を行うなど、“燃える春闘”の年となった。

1967

 三井倉庫労組が8月1日から月1回の土曜休暇制度実施を実現した。全倉運における週休二日制のハシリとなる。しかし週休二日制との引き換えで平日の労働時間延長も広がっていく。

1968

 港湾の日曜祝日完休闘争がはじまる。この頃、港は365日ほとんど休まずに動いていた。この年、船内、はしけ、検数、検定、倉庫、公務員など港の労働組合が共同で「せめて日曜・祝日完全休日に」という要求を港湾関係事業者団体の日本港運協会(日港協)に提出。9月から毎日曜・祝日には港にピケをはり、現場をまわって荷役中止を説得するなどのたたかいが続けられた。
その結果、日港協との間で、日曜日月2回を完全休日とする協定が結ばれた。多くの港で日曜日が完休になっているのは、この時のたたかいの成果だ。

1969

 三菱倉庫労組が「年間給与方式(賃上げ・夏季一時金・年末一時金を春闘で決めるやり方)の採用を決定した。賛否両論、甲論乙駁(こうろんおつばつ)の論議があった。現在では10組合程がこの方式をとっているが、年末一時金について会社が回答提示しないなどの問題が生じた。

1972

 春闘で全倉運24単組の平均賃上げ額が10,000円を突破。全倉運平均も10,332円とはじめて5ケタになる。
日東運輸(現在の日東物流)、篠崎倉庫、三菱倉庫、三井倉庫の4単組が初めて月2回の週休二日制を獲得し、全倉運の週休二日制が進み始めた。

[余話・1]この頃の春闘のスローガンは「誰もが5ケタの賃上げを!」だった。11月に日曜祝日完休闘争をたたかった港湾関係の組合が全国的に結集して全国港湾(全国港湾労働組合協議会)が結成され、働きやすく魅力ある港湾をつくろうという運動が発展していく。

[余話・2]全倉運も結成の運動に参加し、協議会の一員となる。

1973

 全倉運結成25周年記念行事を行い、組合員数100人が参加した記念の集会(東京)、パリ旅行、全国ボウリング大会などを実施した。
 第一次オイル・ショック。原油価格が一挙に何倍にも跳ね上がり、便乗値上げもあってトイレットペーパーも買えないという物不足、物かくしが横行。物価は1年間になんと30%以上も上がった。

1974

 史上最大の春闘。74春闘では、狂乱物価のもとで30%春闘といわれる賃上げを勝ち取った。歴史上もっとも賃上げ額・率が大きかった年だ。

[余話]全倉運の妥結額の平均は30,005円。最高は日本倉庫の39,500円。三菱倉庫29,800円、三井倉庫29,402円、澁澤倉庫25,150円、川西倉庫25,990円など。当時の平均賃金は10万円前後。この春闘では、全倉運30組合が時間内のストライキに突入、時間外拒否は38組合が実施するに及んだ。生活防衛のために必死になった労働組合の面目(めんぼく)躍如(やくじょ)たる成果が残った。

1975

 国連が定めた「国際婦人年」。これを契機に、第1回全倉運婦人会議が京都市で開催される。

[余話]1987年まではこの名称で続けてきたが、1988年以降は女性組合員の要望を受けて「レディス・サークル」と改称した。
 全国港湾が揚げた港湾労働者の老後保障要求によって港湾労働者年金制度が発足。港湾に連続して18年以上働いた人60歳以上の人に15年間にわたって年間11万6千円(76年当初水準。現在は25万円)の年金が支給されることになった。
 日経連を中心に賃上げ抑え込みの攻撃が激しくなる。この年の春闘で15%以内に抑えられ、以降、春闘の賃上げ率は低下傾向をたどり始める。

1978

 全倉運結成30周年。記念行事として、単組の代表、諸先輩などを招いてのレセプション、カナディアン・ロッキーツアー、機関紙『全倉運』縮刷版発行、写真コンクールなどを実施している。

1988

 全倉運結成40周年を迎える。
 名古屋港鉄鋼埠頭労組、北斗倉庫労組の2組合が全倉運に加盟。

1989

 11月にアサガミ労組が「毎週土曜日を特別休暇とする」という準完全週休二日制導入を実現する。90年6月には三菱倉庫、三井倉庫、住友倉庫も、年間の土曜日の大半が休める準完全週休二日制を導入。人手不足、人材確保を背景にして、倉庫産業にも完全週休二日制をはじめとする労働時間短縮の実施の機運がおきる。

1995

 全国港湾と日港協との間に締結されている「コンテナ埠頭で日曜日の荷役を例外的に行う協定」で、コンテナターミナルに事業場をもつ港運事業者は、「平日の労働時間は拘束8時間・実働7時間」でなければならないことが取り決められた。これがきっかけとなって、全倉運でも、三菱倉庫、三井倉庫、住友倉庫が7月途中から、東洋埠頭が10月から、澁澤倉庫が12月から、全職場を平日は拘束8時間・実働7時間にすることに踏み切った。96年には川西倉庫、安田倉庫、東陽倉庫、97年にはアサガミが続き、9組合が港湾労使協定に基づく労働時間体制になった。

[余話]月1回土休制の実施と引き換えに時間延長が持ち込まれた1967年以来、28年ぶりの「拘束8時間・実働7時間体制」への復帰。

1996

 7月に日本サイロ労組が加盟。

1998

 1月23日全倉運結成50周年記念祝賀会を開催。
 三井埠頭が、手形問題(偽造手形と言われている)をきっかけに経営危機に陥り6月会社更生法の適用を申請し、10月に裁判所が更生手続きの開始を決定した。また組合は、管財人とも協力し合って会社再建に乗り出し、全倉運加盟組合も三井埠頭労組に全面支援体制をとることとした。

1999

 6月に日本サイロ労組に対する不当労働行為救済を千葉県地方労働委員会に申し立て、9月から審問にはいる。審問は2000年10月までに10回開催され、全倉運各単組から毎回30名前後の傍聴支援が続けられた。

2001

 3月に日本サイロ労組に対する不当労働行為救済命令が出る。千葉県地方労働委員会は、日本サイロ(株)の組合に対する一連の行為を労働組合に対する組織弱体化をねらった不当労働行為と認定する。また、委員長らへの職場待機・自宅待機命令の撤回、組合員の降格撤回と原職復帰、陳謝を表明する謝罪文の掲示などを命令する。
 会社は反省の意思を示さず、中央労働委員会に不服申し立てをし、10月と12月には中央労働委員会の再審査がおこなわれた。

2004

 7月26日、中央労働委員会は、日本サイロ不当労働行為事件について、千葉地労委の救済命令どおり、不当な降格を受けた6人の組合員について、移動命令を取り消し、原職復帰とこの間の賃金差額などを支払うよう命令書を会社に交付したが、会社は東京地裁に取り消しを請求した。

2006

 日本サイロ不当労働行為事件が3月22日に東京地裁で組合が勝利和解。会社は中労委命令を実施する。

     

2008

 7月10日全倉運結成60周年記念祝賀会を開催。

2009

 鹿島東洋埠頭労組は春闘で56歳以上の定昇制度や基本給のバラツキ是正などを要求。6月19日、6月23日就業時以降、翌24日の時間内までの24時間ストを通告。この間、全倉運も抗議行動を行い、繰り返しの団交が行われたものの回答は動かず、ストは決行された。その後、全倉運も含めた三者協議などを経て、会社側の定昇制度の見直しや労使による経営健全化委員会設置などの提案受けて、妥結に至った。

2011

 3月11日、東日本大震災が発生。関東・東北の組合員にも少なくない被害をもたらした(死亡1名、全壊4棟、半壊1棟、一部損壊52棟(内鹿島地区47棟)、自家用車18台流出)。全倉運では被災地に救援物資を届けたほか、救援募金をよびかけ、32単組から522万5400円が集められ、被災単組に見舞金としておくられた。

2012

 8月10日、消費税増税法案が参議院本会議で可決、2014年4月から税率が5%から8%へ引き上げられることが決まった。数回の延期を経て、2019年10月からは、さらに10%への引き上げも予定されている。
 2009年に「消費税増税論を4年間封印する」と公約し、政権交代を果たした民主党内閣も、この年の12月の総選挙で敗れ、再び自民・公明の政権が復活した。

2014

 この年の春闘から、政府が財界に積極的な賃上げを働きかける、いわゆる「官制春闘」がスタート。しかしベア獲得は一部の大企業にとどまり、中小企業や私たち全倉運の職場までは賃上げの波は強く及ばなかったといえる。

2016

 前年9月に多くの国民の反対にもかかわらず強行された安全保障関連法(安保法)が3月29日から施行された。日本が直接攻撃を受けた場合でなくとも、「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」と政府が判断すれば、海外で武力行使ができるような内容、法律となった。

2017

 国の年金制度改正にもとづき、2004年の13.58%水準から段階的に引き上げられてきた厚生年金保険料率は、この年の9月で引き上げを終了。今後は18.3%で固定されると言われているが、たとえ上がらなくても、以前よりずいぶんと高い水準といえるもので、このままでは実質賃金は目減りする一方となる。2018年春闘ではベア獲得に強い意志をもって総力を上げた要求を行い、賃金引上げを実現させなければならない。

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